表紙私的意見>21〜30話

【21話】05/05/20 「権利と義務(その2)」
障害者が実社会で面と向かって批判されることはまずありません。
たとえそれが真っ当なものでも、健常者が障害者を批判すると「差別」と捉えられる 恐れがあるからではないでしょうか。
けっこう元気そうな障害者が毎日パチンコ屋通いしているのを見ても「毎日遊んで ないで仕事しろよ」とはなかなか言えないものです。
しかしインターネットの障害者に関する話題を扱う掲示板では(私は「2ちゃんねる」 という大手の掲示板サイトを主に巡回しています)、遠慮容赦のない言葉で 障害者批判が展開されています。
匿名で書き込めるネットの掲示板は、実社会では言えない本音を遠慮なく ぶつけることができるからでしょう。 匿名ゆえに表現が過激になる傾向がありますが。
そこでよく目にする批判に「障害者は権利だけを主張して義務を果たしていない」 というのがあります。 果たしていない義務というのは「国民の三大義務」の、勤労と納税の義務のことです。
要するに障害者の多くは仕事をしていない。よって納税していない。 すなわち社会の役に立っていない。しかし我ら健常者の血税で手厚く保護されている。 そのくせあれこれ権利を求める。社会のお荷物だ。
まぁ、そんな感じで叩かれていたりする訳です。
うなずく部分もありますが、そりゃあんまりだよという部分もあります。
世間では数年前から「ニート(若年無業者)」と呼ばれる人達が社会問題になるほど 増加しているそうです。その数およそ50万人以上。
そこで政府がニート対策に盛り込んだ予算が810億円ですよ。
五体満足で働けるのに働きたくない人達にそんな大金を使って働かせようとするなら、 働きたくても働けない障害者にもお金をもう少し使ってくれてもいいのになぁと 思ったりします。
動かせるのが足の指一本しかないのにパソコンの専門知識を生かして立派に 稼いでいる障害者もいますが、その人の職場では重度の障害があっても働ける環境が ちゃんと整えられています。
働く環境が整えば、その人のように勤労と納税の義務をちゃんと果たせる、やる気のある 障害者が日本中にいるはずです。
とりあえず義務を果たした上で権利を主張すれば、実社会でもネット社会でも 批判される理由が一つ減りますからね。
日本も他の人権先進国と同じように、障害者を労働力と見なす政策に早く切り替わって くれれば嬉しいのですが。


【22話】05/05/30 「まじめなシモネタ」
私が車椅子で移動している姿を見ると、大変ですねぇと労をねぎらって くださる方がけっこういます。
僅かな段差や斜面で苦労しながらヘコヘコと車椅子をこぐ姿が、健常者からは さも大変そうに見えるのでしょう。 って、実際に大変なんですけどね。
確かに歩けないことは苦労だらけなのですが、実は私達車椅子乗りは歩けない ことより、外見から分からない内部的な障害の方で難儀していることがあります。
脊髄を損傷すると膀胱や直腸に機能障害が起こりまして、そのせいで、 うんこやおしっこの排泄が健常者と同じようにできません。
排尿や排便の管理は何かと面倒で難しく、そのために行動が制限される場合が あります。
私の場合、三〜四日に一度のペースで排便しています。 前日に下剤を飲んで排便時刻を決めます。 一回の排便の時間が最低一時間はかかるので、終わった後はくたびれて ヘロヘロになります。
情けない話ですが、私は今でも年に数回は失敗してしまいます。
体調や食生活や下剤の飲み加減で、排便の予定時刻がずれてしまうときがあるのです。 失敗したときはやはりズドーンときますねぇ。
おしっこはまだ「あー、やっちゃった〜」で済ませることが何とかできますが、 うんこのときはそうは問屋が卸しません。
いい歳こいた大人がうんこを漏らすなんて、いくら障害のせいと言えどもさすがに ヘコんでしまいます。
何で俺は障害者になってしもうたんかなーと、今さらながら悔しい気持ちで 一杯になる瞬間ですよ。
しかしうんこ失敗したぐらいでいつまでもヘコんでいては障害者なんかやってられ ないので、お風呂に入ってサッパリしたら明日に向かってまた突き進むのです。
今でこそインターネットの普及でこの種の情報も比較的容易に入手できるように なりましたが、私が受傷した頃(もう18年前になります)の情報源は同じ 車椅子乗りの仲間でした。
車椅子乗りの先輩(男性)が当時「車椅子が三人集まればシモの話」になると 得意げに言っていましたが、実際のところその通りでした。
車椅子乗りにとって、それだけ排泄は重要で切実で難儀な問題だったのです(と言うか、 「なのです」ですが)。
もし歩けるようになるか排泄が普通にできるようになるかのどちらかを選べると したら、私は排泄が普通にできるようになる方を選びます。
そう言う訳で、皆さんは車椅子乗りの障害者になんかならないように、くれぐれも 脊髄を大事にしてくださいと言うお話でした。


【23話】05/06/03 「注意一秒、怪我一生」
最近、巷で噂のピアノマンですが、有力だったチェコ人説もまんまと否定されて しまいましたね(6月3日現在)。 一体いつ一件落着するのでしょうか、興味本位で他人事ながら心配です。
さて、記憶喪失が「売り」のピアノマンですが(違うかな?)、実は私も 記憶喪失になった経験があります。
交通事故の当日の、朝から事故に遭う直前までの記憶がスッポリと抜け落ちています。
それまで記憶喪失なんて映画や小説の中だけの話だと思っていましたので、 まさか自分がそうなるとは、何だかとても奇妙な感じでした。
でもまぁ、言葉や自分のことまで忘れていた訳ではないので、ピアノマン みたいに深刻ではなかったんですけどね。 それでも当時はやはりちょっぴりショックを受けました。
そこで今回は、その当時の状況を回顧してみたいと思います。
話は18年前にさかのぼります。初冬のある日曜日ですよ。
私がバイクで直進中、タクシーがいきなりUターンしてきて、避け切れずに タクシーの側面に突っ込みました。
「注意一秒、怪我一生」なんて標語がありますが、事故は本当に一瞬で、 まさにその通りになってしまいました。
目が覚めたら、と言うか、意識が戻ったらベッドの上でして、 「ここはどこだ?」でした。
けっこう飛んだみたいです。衝突時の衝撃で、バイクの座席から戦闘機の コックピットの射出よろしく、生身で道路にダイブした訳ですよ。
ヘルメットのおかげで脳みそは無事でしたが、首の骨(第六頚椎)と 身体中の骨(鎖骨やら肩甲骨やら六ヶ所くらい)がバキバキと盛大に折れていました。
意識が戻って(三日ほど不明でした)数日経って、担当医の上司の医者が突然 やってきて、私を地獄に叩き落としてくれました。
「君は一生寝たきりで垂れ流しだから」
そう言われた瞬間に、私は「死のう」と思いました。
今でも忘れません、あのときの絶望感で頭の芯が痺れていく嫌〜な感覚は。 今ではこうやってネタにして笑えるくらいですけどね。
告知された日はとうとう一睡もできずに翌朝を迎えました。
泣いて夜を明かしたのは、私の今までの人生でその日だけです。
自分でも驚くほど涙が出るんです。ええ、もうダダ漏れですよ。
しかし翌朝にはとりあえず決心しました。
「クヨクヨしても歩けるようにならないなら、クヨクヨするのは時間の無駄だな」と。
とは言っても、やはりたまにはクヨクヨしていたんですけどね。
立派な決心はしてもそんなに格好よくはいきません。
ですが今考えても切り替えは早かったなと思います。元が楽天的な性格ですから。
看護師さんもリハビリの先生も「受容が早い」と驚いてました。
そんな感じで私の車椅子人生が始まりました。
そしていろいろあって現在に至る訳ですが、その「いろいろ」をこれからも ぼちぼち書いていこうと思っています。


【24話】06/04/27 「ルーキーの憂鬱」
私は小学校や中学校で、ノーマライゼーションやバリアフリーに関する講演などをしています。
一通り話し終えた後の質問の時間に、生徒さんから「(障害を持って)一番つらかったことは 何ですか?」と聞かれて、返答に窮したことがありました。
つらいことはそりゃもうたくさんありましたが、嫌なことはさっさと忘れて次行こ、次!と言う 能天気な性格なので、すぐに思い出して答えることができませんでした。
そのときは「体が不自由なことで受ける社会的な不利を理解してもらえずに同情や 侮蔑されたこと」と当たり障りのないことを、子供にわかる言葉で説明してお茶を濁しました。
先日そのときのことをふと思い出し、受傷以来「一番つらいこと」は何だったろうかと しばし考えてみました。
もうだいぶ昔になりますが、退院して少し経った頃の話です。
彼女(現在の嫁さんですが)と福岡までドライブ旅行に行きました。
そして福岡に新しくできたデートスポットとやらに行ってみようとなりました。 確か福岡ドームの向こう側だったと思います。
看板を頼りに何とかたどり着いたら、広い駐車場はすでに満車状態で、 おしゃれな若者カップルがワラワラと湧き出ていました。
駐車場の端っこに車を停めて、店まで元気よく歩く大勢の若い人達を見ていたら、 なぜだか急に気持ちがしぼんでいきました。
当時は私もみんなと同じ20代前半の若者でしたが、みんなと同じ健常者ではありません。
そんなことは分かりきっているはずなのに、歩けない自分がとてもみじめに思えてきて、 車から降りたくなくなりました。
この多くの若い人達の前に、車椅子である自分の姿を晒すことがすごく恥ずかしく感じたのです。
泣きたくなるほどの屈辱感でした。 そしてそのように感じる自分に激しい自己嫌悪を覚えました。
そのとき私はまだ自分の障害を受容してなかったのだと思います。
地元の繁華街をウロウロするのは平気な程度の受容はできていても、まだまだ 完全ではなかったと言うことでしょう。
結局、私は車から降りることなく、その場所を後にしました。
せっかく苦労して着いたのに、そこからすぐに去ることになってしまって、彼女には とても悪いことをしたと思います。
その後、ちゃんと理由を説明したら彼女は納得してくれました。
あれほど心が潰れるようなつらい気持ちになったのは後にも先にもあれっきりですので、 一番つらかったことと言えば、この思い出になるでしょうか。
今ではすっかりずーずーしくなった私も、初々しい車椅子ルーキー時代があったと言うお話でした。


【25話】06/05/03 「UFOに願いを」
小学生の頃からUFOや心霊現象や超能力やUMA(未確認生物)などの不思議モノが大好きでした。
その類の本を片っ端から読みあさり、テレビの超常現象を扱う特番などは画面に かじりつかんばかりに見ていました。
当時は「ノストラダムスの大予言」を本気で信じていましたし、自分にも超能力が あるかも知れないとスプーンをにらみ「曲がれ」と念じたこともありました。
天井まで高さのある大型の本棚には「ロズウェルの秘密」やら「UMAを追え!」やら 「世界超常現象辞典」やらの本がぎっしりと並んでいました(引越しのたびに減りましたが、 今でも半分ほど残っています)。
矢追さんや韮澤さんが確信に満ちた表情で超常現象を肯定する言葉に、不思議大好き少年は 胸をドキドキワクワクさせていたのです。
しかし学年が上がるにつれ、その手の話題の怪しさ、胡散臭さがちらほら見えてきて、 次第に興味を失っていきました。
部活で忙しかったり、ちょっぴり悪いことや女の子の方に興味が移っていって、 それどころではなくなったという事情もあります。
それから数年後、私は交通事故で重傷を負い入院していました。
一日の大半をベッド上で過ごしていた時期、ある奇跡の物語を思い出しました。 UFOと遭遇したことで人生が変わった、車椅子で生活していたアメリカ人の話です。
その人が自宅で寝ているとき、まばゆい輝きを放つUFOが、音もなく部屋のすぐ外に 浮いているのが窓から見えたそうです。
UFOに気付いて恐怖で身を固めていたら、いきなりUFOから怪光線が発せられたそうです (しかし「怪光線」って…)。
その人は怪光線を全身に浴びて気を失いました。 そして気付いたときは、なぜか歩けるようになっていたそうです。
何年も歩けなかった人がいきなり歩けるようになったのは、あの怪光線を浴びた せいではないかとその話は結んでありました。
「溺れる者は藁をも掴む」と言いますが、医者から「一生、車椅子の生活」と宣告を受けたものの、 できればもう一度歩きたいと願っていた私は、その奇跡の出来事が自分の身にも 起きてくれないだろうかと本気で思ったのです。
そして一時期は毎晩のように「UFO来てくれ」と窓の外を眺めながら真剣に念じていました。 再び歩けるようになるなら、宇宙人から人体実験の標本にされてもかまわないと思っていました。
しかし、結局、UFOは私の家には一機も飛来せず、怪光線を浴びることもありませんでした。 当然と言えば当然なんですが。
人間は追い詰められると、冷静なつもりでいても現実と虚構の区別もあやふやになるものだなと、 我が身をもって確認した次第です。
そして現在では、大槻教授にも負けない超常現象の完全否定派になりましたとさ。


【26話】06/05/08 「母ちゃん、ごめんね」
私がこのような障害を負ったことで、他の誰よりも、実の母親を最も悲しませてしまいました。
早くに離婚した母は、私と妹弟の子供五人を女手一つで苦労しながら育ててくれました。
決して裕福とは言えない暮らしでしたが、子供時代に多くの楽しい思い出を与えてくれました。
そしてきちんと健康な身体に育ててくれたのに、私は勝手に首の骨なんか折ってしまって、 また赤ちゃんと同じ頃の世話を母にさせてしまうことになりました。 それどころか、身体が大きい分、赤ちゃんの頃以上の手間をかけさせてしまいました。
私にずっと付き添ってくれていたとき、私の前ではいつも笑っていた母が、病院内の公衆電話で 誰かに泣きながら話していたと妹から聞かされたときは、申し訳なくて情けなくて胸が潰れる思いでした。
受傷したばかりの頃は、世の中で自分が最も不幸だと思っていて、自分のことでいっぱい いっぱいでした。
しかし、母親を人前で泣かせる目に合わせていた、最低の親不孝者でした。
この状態を何とかしたい気持ちは愚か者なりにありましたが、入院中はどうしようもありませんでした。
その頃は退院したら一刻も早く自立して、母親にこれ以上心配をかけさせないようにすることが 最善だと思っていました。
しかし障害者に対する社会のバリアは考えていた以上に高く、地元の佐世保では、一人暮らし用の アパートも仕事も、退院後すぐには見つけることができませんでした。
縁あって大村のアパートに引っ越すことができて、何とか親元から離れることができました。
現在は結婚して家を構えて、細々とですが商売を営んでいます。
子供はいませんが、妻とくだらないことで笑ったりケンカしたりして仲良く暮らしています。
時間はかかりましたが、やっと母の心配の種を一つ減らすことができました。 受けた恩には遥かに及びませんが、母への感謝の気持ちを私なりに表すことができて良かったです。
普通の生活を送っているだけで母親が喜んでくれるなんて、私がいかに親不孝をしていたかの 証明になりますが、それでも、正直、とても嬉しく思います。
用事がなければ誰にも電話しない私ですが、母にはたまに用事もなく電話をかけます。
糖尿病であちこち不具合が出ていると言う母ですが、いつもの元気な声を聞くとやはり安心します。
食事制限はあるみたいですが、少量だったら何でも食べて良いらしいので、ネットショッピングで 日本各地の美味しい物を注文して送ってあげると喜んでくれます。
あまり「母ちゃん、母ちゃん」と言うと妻から「マザコン」と冷やかされるので、日頃は話題に出しません。
もうすぐ「母の日」なので、母の話題で書いてみようと思いました。
先日から妻と、両方の母親に、今年は何をプレゼントしようかと話し合っているところです。


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